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2013年2月13日水曜日

岩波講座ロボット学 6 ロボットフロンティア


岩波講座ロボット学 6 ロボットフロンティア



この本は、ナノマシンの話であったり、医療用ロボットだったり、人工知能やヒトの機能・知能を興味の中心にしている私のような者にとっては多少退屈。

しかし、2章の「脳科学とロボティクス」は単に脳を手本としたロボット学や人工知能研究への導入文として読んでも面白そうだ。
脳科学とロボティクスが共発達していくことも書かれている。
また、David Marrの「ビジョン」、伊藤正男の「脳のメカニズム」が紹介されている。

5章では「認知力学系とロボティクス」と題して、記号接地問題は、そもそも存在しない、という立場を紹介している。

6章の「デジタルヒューマン」も結構面白い。
元々は自動車の衝突実験で使われるダミー人形をコンピュータシミュレーション上で用いるためのもののようだが、人間のサイズ、構造、硬さ柔らかさ、動きなどの蓄積された情報はヒューマノイドロボットを作る際に大いに参考にされるべきものだと思える。

意外に、ヒューマノイドロボットの開発者が人間の行動、体の特徴を研究していないということがわかる。
これだけ二足歩行のヒューマノイドロボットが開発されている日本なのに、SHIN-WALKのような、言われてみれば当たり前のようなことが天才高橋智隆さんの登場までわからなかったという…
HRP-4Cの歩行はかなり良くなっているが、モデルウォークにはあと一歩及ばない。
ロボットの動きがメカメカしいのは、モーションの作成が面倒くさいというのもあると思うけど(モーション作成者のセンスの問題?)、使っている動力の違いによるものが大きいと思います。脱力するだけでぶらぶら受動的に動く筋肉は、同時に、電気モーターに比べればかなりの瞬発力を発揮します。電気モーターでは颯爽とした動きが難しいのはこの点に問題があると思うのです。また、能動的に制御しなければ筋肉のあの受動的な「ぶらぶら」感は表現できません。高橋智隆さんにモーションの生成プログラムの作成指揮をとってもらえば、「ぶらぶら」感を自動的に再現できるモーションエディタができるかもしれませんね。 

以下、記号接地問題について、わかってない奴が寝言を言ってます。
自分が、記号や抽象的な概念を、どうやって「納得」しているか、というような問題だと、大雑把には理解している。
認知力学というものがまた雲をつかむような概念なような気もするが…
というか、あんまり理解できてません。
自分が初めて目にする図表があるとして、その数値やグラフの意味を理解するためには、頭の中でその図表のタイトルや情報の出てきた背景・分野などの既知の情報との接点を探していると思う。
そんな難しいことでなくて、「自分に向かうある方向(例えばベクトルx)を持ち、ある距離dからある速度vで飛んでくるボールがあるとき、状況に応じてこれを避けるのか、つかむのか、蹴飛ばすのかを選択し、体を適切に運動させ、選択した行動を達成する」というようなときを例にすると…
この時に、ただ記号的にベクトルの軸の定義やベクトルの各要素の値、速度とその単位、自分までの距離などを文字として見せられたり、コトバで聞かされたりしても、すぐには動けないと思う。でも、自分の目で直接そのボールを見れば、そんな記号や数字を知らされる必要はなく、ほぼ自動的に体は動く。
記号で与えられたときは、自分の内部情報や内部座標系を用いて理解できるように翻訳しなければ体は動かせない、この翻訳が記号と認識を繋ぐための操作だと思う。
それに対してはじめから自分の内部情報や内部座標系を用いて認識されたボールに対する対応は素早い。翻訳の必要がないということは、記号接地問題が存在しないということだと思う。
ということで… さっぱりわからんな。
翻訳の必要がないと言うよりは記号を用いていないような気がする…





2013年2月8日金曜日

ヒト型脳とハト型脳

本日のお題は、「ヒト型脳とハト型脳」
著者 渡辺茂

脳・(人工)知能関係の入門書を読んだ方に、オススメしてもいい本だと思う。

著者はあとがきで、
鳥関係の研究集会で話をする。脳の話題は歓迎されない。血にまみれた研究だからである。脳の研究集会で講演する。面白がってはくれる。しかし、それは所詮鳥の脳の研究だろう、という雰囲気を感じる。かくして僕はあてどなく漂う。
という記述をしている。

分野の隙間、あるいは交わる所だからこそ面白いという気がするのだが、各分野の「王道」を行く研究者には王道ならではの自負があるのだろう。
(まあ、それが「バカの壁」だと思うのだが)

ヒトの脳や人工知能の本を読んでいると、知能の発現、あるいは人工知能の構築には、ヒト型脳が必要なのではないかと思いがちだ。

だが、カラスは人間社会の近くで暮らしているからだと思うが、よく遊んでいる姿が目撃されている。YouTubeなど、ちょっと検索してみるとおもしろい。滑り台、ボール遊び、雪すべり、ソリ遊び、、、。

人は、姿が違う鳥の行動を見て、何がしたいのか、何をするつもりなのかを類推することができる。犬でも猫でも、ハイハイしかできないゼロ歳児でも、その行動から何かしら意図のようなものを汲み取ることができる。
ということは、鳥の脳が十分に発達していた場合、人の意図を彼らが推察することも可能だと思う。

人社会で人間に混じって役割を演じるロボットというのは、実はもう結構存在すると思う(ロボットの定義によるだろう)。
エアコン、炊飯器、テレビ、冷蔵庫、スマートフォン、自動車…
みな、固定的に与えられた昆虫のような知能だが、状況に応じて自らの機能を調節しているという点で、ロボット掃除機の例を引かなくても、それらはロボットだと思う。

人間と並んで歩いて荷物を持ったり道案内をしたり家を作ったり。
そのようなロボットに、はたして人間の心の機微を知るような、そんな種類の知能が必要だろうか。50年後ならいざしらず、現在のコンピュータは哺乳類の脳内での情報処理を実時間内でシミュレートするには能力不足であろうから、人と異なるアプローチでも同等の事ができるという事実を以って、視野を広く保ち続けていたいものである。

もちろん、人と同じ種類の知能を備える必要のあるロボットも考えられる。
教師、医師、看護師、ヘルパーと呼ばれる人達、セクサロイド。

コウモリとトリと飛行機
イルカ・クジラとサメと潜水艦
ヒト型脳とハト型脳と…



2013年1月23日水曜日

つぎはぎだらけの脳と心

さて、本日2冊め、行きます。

つぎはぎだらけの脳と心



副題は「脳の進化は、いかに愛、記憶、夢、神をもたらしたのか?」
著者はデイビッド・J・リンデン、訳者は夏目 大。

読みやすい本です。
人の心の不思議に近づける気がします。

これまで読んだ本で、ヒトの脳には、トカゲ的視覚野と新皮質上の視覚野が共存していることは知っていましたが、やはり、進化は増築に次ぐ増築でヒトの脳を作ったようです。
まるで、少し大きめで歴史のある温泉宿に行くと、本館、別館、新館、などと複数の建物が渡り廊下などでつながっていて、さっきまで1階にいたのに、進んだ先は2階だった、というようなことがよくありますが、まるでそんな感じです。

鳥類の脳は哺乳類と違っていて配線の効率がいいので、小さくても知能が高い、ということを見聞きしたのですが、そうだとするなら、進化の過程でどんなドラマがあったのか、興味あるところです。

ものすごく精緻に設計された、スーパーコンピュータをも凌駕する脳があるから人間らしいのではなく、ありあわせの材料で建て増しを繰り返して非効率きわまりない脳を効率的に使おうと苦しんでいるのが、人間、という感じらしいです。

稀代の天才が現れ、人工知能をゼロから設計して作動させたら、人間の知能とはかけ離れていて、友達にはなれない。それどころか、人類を殲滅してしまう、ということもあり得ると思います。
うまく人間と付き合っていける知能を育てなければならない。そんな気がします。


以下、一部、これまでに読んだ本の内容とごちゃまぜになっちゃってますが…

神経細胞というのは、クラゲのものと、人の脳のものとで、基本的に同じらしいです。
哺乳類では軸索が髄鞘化しているものもあって効率は高くなっていますが、それでも人間が情報伝達のために発明した導線のすごさに比べたら、雲泥の差です。

経験を効率的に明日の生活に活かすために、エピソード記憶を発達させ、時に捏造してまで辻褄の合った物語を必要とするヒトの脳。このエピソードを作る副産物が意識、特に自意識、自由意志といった表現で知られる感覚や現象の素になっていること。

オトナになるのに時間がかかる子供を育てるために、また、群れを作ることのメリットを享受するために、ヒトは集団で暮らすが、そのときにある程度上手くやっていくためには「道徳」のようなものが必要で、というか、道徳を持っていた個体が上手く子孫を残したんでしょうね。
集団で仕事をするために必要なものとして、「共感」もあると思います。
あるヒトはそっちに灌漑のための溝を掘ろう、と言う。自分はもうちょっと山に近いほうがいいと思うけど、それほど根拠もない。それならアイツの言うことも悪く無いか、と思わないことには意見が集約せず、共同作業ができないからです。
そして、共感の能力はロクに話せもしない幼児の頃から、ふたり以上で遊ぶことができる年齢になれば、自然と発揮していると思うのです。
「なんだかわからんがスゴそうなもの」を信じたいという気質も人間は持っているらしく、私はそれも集団生活のために獲得した機能だと思います。

長年にわたって擁護し続け育てなければならない子供のために、ヒトは最小単位として夫婦による子育ての方式を選んでいるように思います。特定の人と長期間一緒に暮らすためには、共感や尊敬や愛や快感が重要だという考えには容易に賛同できます。

脳内での記憶の整理やなんやらに役だっているらしいといわれる夢。
結局複雑すぎてなんだかわかってないみたいです。が、これもヒトになってから突然獲得したものと考えるのは難しいと思います。
我が家には犬が一匹いますが、寝ていると眼球が激しく動くときがあるし動かないこともある(レム睡眠、ノンレム睡眠がある)し、寝言も言います。いや、もちろんコトバじゃないけど、キュンキュン泣いてみたり、なんか食べてるみたいにクチャクチャと口を動かしたりしながら寝てます。つまり夢を見ていると思うのです。
睡眠中は前頭葉など、物事の確からしさを吟味する機能が低下しているらしいです。そのせいで、夢のなかでは現実ではありえない展開が起こるようです。

宗教については、さすがにヒトになってから得た機能が原因だと思いますが、犬や猫が、なにか超常的な畏怖すべきものを信じているかどうかは、彼らがコトバを話さないので知る由もないことです。
宗教の素は、夢を見ている時のように現実ではありえないものも信じてしまう精神状態、あるいは分からないことを切り捨てて自分に都合のいい物語を作ってしまう機能により「意識」が「実体験した」と勘違いしたいろんなことを更に物語として語ってしまうこと、および、「なんだかわからんがスゴそうなもの」を信じたい気質、「共感」の能力が集まっているのでしょう。
ただし、世の中で幅をきかせている宗教には、政治的に利用しつくされ元のものとはかなり変容しているものも多いと思いますし、宗教というより道徳だったり、戒律を守らせるための脅しだったりするものもあり、神仏や自然を崇拝するという意味での宗教ではないものが多いと思います。

心をもつ機械

今日は2冊ご紹介しようと思います。
1冊めは、「心をもつ機械」です。
副題は「人工知能の誕生と進化」、著者はスタン・フランクリン氏、訳は林一氏。



本編619ページの厚めの本ですが。。。

とにかく、読みにくい。
文章が独特すぎる。
あくまでも私個人の感想ですが、ものすごく読みづらい。
ちっとも内容がわかりません。

まだ私には早かったということかもしれません。
使用されている用語にもっと慣れ親しんだら、読めるようになるのかもしれません。
そういう意味で、上級者向けの本、という分類にしておきましょう。

ですので、実は読破できませんでした。300ページくらいでgive upしました。

内容は…

よく二元論的に言われているように、知能は「ある」か、「ない」かのどちらかではなく、その間のどの状態でも取りうる、ということ(何を以って知能というかはまた別問題)。(同様に、「生物」と「非生物」も連続的に考えることができる)

単細胞生物でも、餌や避難すべき毒物、光や温度に対応して向かって行ったり逃げたりするが、これも単細胞生物なりの知能だろうとのこと。

この辺りの考えには賛同できる。

また、私の今までの感覚では、エキスパートシステムのように、システム自身は単語や文章の意味を知らないが、質問(入力)に応じて適切そうな回答(出力)を行う、記号を記号のまま扱うシステムでは生物のような知能は生まれないのではないか、と思っていたが、そうとも言えないのではないかと思えてきた。

ニューロンモデルでできることはすべて記号を扱うシステムを用いて再現できる、というような記述が、あったように思う。思う、というのは、今このコンピュータの隣にこの本を開いて探したのだが、見つけられない。逆の記述は発見できた。「テューリング機械で実行できるいかなる計算も人工ニューラル・ネットワークで実行できる」

何を以って知能というか、言葉の意味を解釈していると言えるのか、そういう問題はもちろん残っている。ニューロンを模したシステムなら言葉の意味を解釈していると言えるかといえば、おなじように分からない、と答えるしかない。
その意味で、ニューロンを模したシステムが人工知能を組み立てるのに良い材料だという断言はできない気がしてきた。


本の続きをパラパラとめくってみると面白そうな図が目に入る。ので、また機会があれば読んでみたいと思います。


2013年1月2日水曜日

また、前頭葉関係の本を2冊



今回ご紹介する本は2冊です。

脳を支配する前頭葉
人間らしさをもたらす脳の中枢



前頭葉は脳の社長さん? 意思決定とホムンクルス問題





「脳を支配する前頭葉」の方が、読みやすかった気がします。
「前頭葉は脳の社長さん?」のほうは、たまに出てくる冗談がキツイ時がありました。

両方の本、また、前回紹介した「前頭葉の謎を解く」とあわせて、やはり、という思いが強まりました。

すなわち、進化上ヒトより前に確立した種の脳、ヒトにおいても前頭葉とその関連部位を除く脳の部位(「古い」脳)が、主に入力系と出力系を結んで情報処理しているのに対して、前頭葉は脳の部位と部位をつないでいる、ということ。

大部分の大脳の部位は、「材料を生のまま塩をふって食べる、あるいは軽く炒めて食べる」ことや、決まったパターン認識を行う、のですが、前頭葉は違っているようです。
「下ごしらえした、あるいはそのままでも食べれる料理を、組み合わせてアレンジしてさらに調理して(直接食べずに)皿に盛り付ける、冷蔵庫で寝かせる」などのことをします。

前頭葉は、感覚器から得た情報と、情動の状態、空腹かどうか、あるいは目的として現在注目すべきものが何なのか、といった情報を組み合わせて、感覚器からの情報そのものを感じる度合いや意味を変化させてしまう。

前頭葉は、今触っているものが尖っていて痛いとか熱くていやだ、といった「現在の情報」だけではなく、それに加えて過去のあらゆる記憶、これから先の目的・計画(未来の記憶)も参照することができる。
前頭葉を除く「古い」皮質は基本的に現在の情報を処理するのみです。

頭の中で、欲しい物の形や色、手触り、味、匂い、といった感覚的なことのみならず、名称を表す文字列などの記号的なもの(抽象的な思考には欠かせない)をも思い浮かべ、色を変えてみたり、形を変えてみたりといった想像を働かせることができるのは前頭葉の働きによるものらしい。

さらに(私自身の考えというか予想というか、が入りますが)、エピソード記憶を作っているのも、前頭葉ではないかと、思います。ある日の出来事を覚えていたり、振り返ったり、という記憶を持つためには、物語の主人公として、起こったこと、行ったことを記録しておく必要があります。外界からの情報、自分が介入したことによる外界への影響、お腹のヘリ具合、四十肩の痛さといった体内情報、さらには自分の脳内でどんな比較や葛藤があったか(前頭葉にとっては外界からの情報と同意義)といったことをかいつまんで記録するためにも、前頭葉は最適な位置にあります。

この記録を以って自身の自由意志の発露だと考えている(勘違いしている)のが、今この記事を書いている、狭義の「私」です。

広義の「私」は、この記事を書いている間にも、呼吸を制御したり、腰が痛くならないように姿勢を変えてみたり、音楽を味わっていたり、ドライアイの痛みに耐えて目薬の在り処を思い出していたり、時刻を気にしていたり、「も」という文字を入力するために手指を動かしていたり、ということを並列で処理しています。

前頭葉はまた、観察している相手の意図を汲み取るためにも重要な役割を持っているようです。この機能と関連しているのが、道徳の概念だと思います。

発生時に、あと1回、たったの1回、前頭葉の神経の分裂が多くなれば、ヒトはもっと思いやりに溢れ、戦争しない生物になれる気がします。
その時には、個人の概念も変化するでしょうか。個人の利益の追求と、集団や種の、もっと広げて全ての存在における利益の追求は、ドコかで折り合いをつけているものですが、道徳観念が進化したヒトにとっての折り合い点は今とは異なっているでしょう。

なんだか脱線気味ですが、まあ、今回はこんなところで。





2012年12月17日月曜日

前頭葉… というよりワーキングメモリについて



前頭葉の謎を解く―心の宇宙〈1〉 (学術選書)




この本は、どちらかと言うとサルを中心とした実験手法の解説とその結果の読み取りに紙面が割かれているように感じた。

もちろん、重要なことが記載されている。

前頭葉のワーキングメモリ、意思決定機構は、脳内の他の部位からの入力と、入力元への出力を持っていること。その入力元は一次野からというよりは二次野からが多いような印象を受けた(勝手にそう感じているだけかもしれないけど)。

一方、脳の他の皮質においても同様のワーキングメモリ的な構造は存在しているようで、それぞれそのモジュール内で入出力を持っているようである。
いわば、機能特化型のワーキングメモリ。

前頭葉のワーキングメモリは機能特化型ではないようだ。
としたら、機能特化型のワーキングメモリと双方向連絡をしているのかも、と思った。

ワーキングメモリのワーキングメモリ、という構図は、入力器ーワーキングメモリ、ワーキングメモリー出力器という機能に特化していたつながりを、同じ部品、同じ機能を用いながらにして、次元をひとつ押し上げたような効果をもたらしているように思う。

それは、具象的な思考から抽象的な思考へとつながる新たな武器を人類に与え、
同時に人類の宗教・文化・科学・自己の認識・他者への思いやりと戦争、といった特にヒトで発達した、良くも悪くも人間らしいものをもたらしたのだろうと思う。


2012年12月6日木曜日

図南の翼

図南の翼、十二国記の話の一つ。

あらすじは、まあ、ネットを漁ってください。

十二国記ファンとしては、他の話に出てきた「更夜(こうや)」が天仙「犬狼真君(けんろうしんくん)」として登場したり、
遠い国の王の次男坊が放浪ついでに諸国を見回っているときに主人公に付き合って(巻き込まれて)行くところとか、そういう面白さもあります。
また、王になるために山に登り麒麟に会う(昇山する)人々の細かな日常みたいなものも知ることができるところも面白い点です。
昇山の旅の最後のほうはちょっと急ぎすぎ(もう少しゆっくり味わいたい)ような気もするけど、スピード感があっていいとも思います。

しかし、何と言っても、このお話で一番おもしろいのは、
昇山するという、小さな女の子。主人公です。

非常に裕福な商人の末娘として生まれ、召使のような人々に囲まれ、何不自由なく過ごしてきたが、使われている人々のことにも思いをすることができる。貧しさ故、食べることができない人々のことを考える事ができる。頭のいい子。

「他に王になるものがいないから、自分がなる」と自信満々にしていた様に見える主人公が
旅が進むにつれてたくさん人が死んだり自分が襲われたりした後で吐露する:
王として正しい采配が取れるかどうかなんてわからない。だけど王がいないために国は荒れ人は死ぬ。自分が昇山しようとしたのは国民の義務だと思ったから。何もせずただ嘆いているだけなのは嫌。嘆くにしても、自分が王にふさわしいかどうか確かめてから。

王になって、みんながいいものを着ていいものを食べて、自分一人が贅沢をしている後ろめたさがなくなったら、贅沢のし放題よ、と言う。

さらにこの後が面白いんだけど、それは読んでのお楽しみ。


よく、「残したらもったいない。世界には食べることができずに死んでいく人が大勢います」とか、聞きますよね。
自分も小学校の時とかによく耳にしました。

でも、何かが違う、と、漠然と思ってたんですよ。
はっきりとはわかってなかったんですけど。あんまり頭よくなかったからなぁ。。。

食べきれないくらい食べ物を集めていること、
それによって、食べられない人たちが出ていること。
それがオカシイことだとは誰も言わない。
自分が食べたいものを食べたいから。

集めた食べ物を、食べられない人達に配っても、問題は解決しません。


究極的には、みんなが食べられるシステムを作るしかない。と、思います。

今回紹介した作中では、そのために少女が王になることを目指します。

作中の世界では、麒麟に選ばれれば王になることができる。
財も学も、生まれ育ちも関係ない。王になろうなんて、だからこそ考えつく選択しかも知れません。

この世界では、持たざるものはそのように、持てるものはより持つように、
そういうようにシステムが出来上がっているように思います。
はてさて。



2012年11月22日木曜日

地球へ… 「違う」ということ

『地球へ…』これを『テラへ…』と読むことができた人は、おそらく私と友達になれる素質をお持ちだろうと思います、

ジョミー・マーキス・シン

昔々テレビで映画版を見たときは、ジョニーだと思っていました。

人に想いを繋ぐということ、託すということ、託されるということ。

地球再生のために特別な政治体制を導入した人類。
すでに人類からある確率で発生しつつあったミュータント。
その発生を根絶することは、すべてをコントロールする巨大コンピュータには許可されていなかったが、体制を守るために抹殺し続けていた。
自然の摂理として発生してくるミュータントを根絶することを良しとしなかった科学者達が人類をコントロールする巨大コンピュータを設計するときに指令として組み込んだためだった。

巨大コンピュータは惑星地球の再生を人類によって託され
ジョミーはニュータント達を地球へ導くことを託された。

巨大コンピュータによって設計された素晴らしい能力を持つ人間も登場する。

キース・アニアン

体制と自らの出生に疑問を持ちつつも、体制側のために働くキース。

とある惑星に降り立ち、しばし急速をとるミュータント達。
初めて母体で妊娠し、自然分娩された数名の子どもたちは非常に大きな力を持ち、
もはやヒトの姿を必要としないほどの能力。
戦いの後に、あまりに強い力のために、地球から離れていく彼ら。
彼らもジョミーが受け継いだ想いを実現するためにはひとまず協力する。

そして、人間であれ、ニュータントであれ、誰かがその体制を超えるものを求めた時に目覚める第3の勢力(これも巨大コンピュータなのだか)。


銃を使うか、ESPを使うか。
手段が異なるのはそれぞれの能力が異なっていたからだ。

立場が違い、それゆえに手段と目的が異なる。
目指す先が違う。

それぞれに含まれる矛盾に気づき、頭を悩ませる。


違っていて、なにが悪いんだろう。

ヒトは何もかもが異なった集団。
たとえ双子でも、同じ空間を共有することはできず、異なる景色を見る。

違っているというだけで、なにもかもが、争いの種だ。

なんとなさけない。
人類は幼すぎるのだろうか。


(誤字脱字修正 2012-11-22)


2012年11月21日水曜日

読んだ本 2012-11-21 星を継ぐもの

星を継ぐもの。

先にコミックスを読みました。
そして、今日、原作の邦訳を読みました。

この順番で良かったと思います。

コミックスでは敵対するものとして描かれていた人物が原作では協力者だったりして驚いたり、コミックスで結構長く描かれた『巨人』が原作では生きた姿で登場しなかったりする物足りなさ、いろいろあったけど、
月面で発見したミイラを、原作ではホイホイと地球上に持って来ちゃったりしてて、おいおい、そんな乱暴なー と思ったので。
人類を代表して、とある科学者が太陽系を継ぐものとしての宣言を行う原作に対し、コミックスでは太陽系での先輩である『巨人』がやってきて、現生人類が太陽系を継ぐにふさわしいと宣言してくれる。この点もコミックスのほうが共感できる。
原作に載っているエピローグは酷い出来だと思う。

ただ、登場する科学者の数やその議論の様子は、原作のほうが濃密に描かれているように思う。
この部分はコミックスとして表現する事が難しい(どうしてもセリフだらけになって、銀魂か!ってなるんだろうなーと)と思うので、読み進めるスピード感とか絵として描き分けるとかといったことを考えると読みやすさを優先しているように思うので、これはこれでいいのだと思う。


原作の、科学者同士のやり取り、
コミックス版の『巨人』たちの叡智、どちらか一方を推せ、と言われれば…
コミックスを選びます。
星野さんのちょっとバタ臭い劇画チックな絵も大変物語にマッチしていると思います。
ご一読あれ。







2012年11月15日木曜日

今日ナナメよみした本 2012-11-15

ロボットという思想
副題:脳と知能の謎に挑む
著者:浅田稔
昨日記事にした、ロボットインテリジェンスという本の後で、より一般向けに、と書かれた物らしい。
ページ数的にも手頃だし、人間の知能や脳の働きに興味を持つ人にオススメしたい。
逆に、ギューンでバーンでドッゴーンなロボットが好きな人には退屈な本でしょう。

『身体から与えられる情報の羊水に浮かび、巨大ロボを操縦する』
人間の知能をそんな風にも感じていた自分だったが、知能≒心と身体は切り離せないひとつの物らしい…
そんなことを思う。そんな本でした。

2012年11月14日水曜日

読んだ本 2012-11


岩波講座ロボット学 4 ロボットインテリジェンス

この本は、本当に面白い。
環境(周りの人を含む、自己を除く一切のもの)、自己の身体(感覚・運動)および精神(狭義の知能)
これらが密接に関連していることを再確認させてくれた。
また、人間の小さな脳では全知全能の神のように上記のすべてを考慮した上で知能を設計できるわけもないため、知能の生成の方向性というかきっかけを与えて自動的に進化するように(進化を設計する?)、自然界からそのエッセンスを抽出して利用するほかない。
ヒトも人間の身体と知能を持つように斬新に設計されたものではなく、連綿と続く進化の過程において山間の温泉宿のように増改築を繰り返すことで設計されている。
多数の末梢性の反射運動、脊髄反射などの反射的な(自動的な)運動単位が、多くは乳幼児期に偶然惹起されることにより脳は自分の体の操縦方法を獲得し、さらに成長に従って高度な運動単位とも呼べる骨格筋への指示命令セットを多くストックすることでより複雑な動作を可能なものにしていくという考えは、ある程度の運動性能や動作のシーケンスを設計段階でロボットに組み込むことの有用性を示していると思う。

ひとつの装置(講談社青い鳥文庫 216-2 ショートショート傑作選 2)

これは、「自分で自分のスイッチをオフにする装置」(下のリンク)を久々に見て気になったので読んでみました。
星新一ショートショート好きだったなぁ。
小中学校の図書館で読みまくった記憶があります。

ねらわれた星(星新一ショートショートセレクション 1)

これは上の星新一つながりで読んでみました。
やっぱり面白いっす。
けど、喜怒哀楽というか人の気持がわかるようになった今読んだほうが
子供の頃読んだより面白い気がします。






2009年7月5日日曜日

読んだ本:「知の創発」

忙しい忙しいと嘆いてばかりいても仕方ないので
また本を読んでみた。

知の創発 ロボットは知恵を獲得できるか

伊藤宏司 著
発売日:2000.03.23
定価:2,940円
サイズ:A5判
ISBNコード:4-7571-6005-4



題名と内容がいまいち一致していない印象を受けたんですが。

群ロボットの話が出てきていました。
個性を持たせ、その揺らぎ方を固定せずに
いつでも揺らぎ続けるようにすると、うまく行くらしいと。
ただ「並ぶ」という指令のみ与えられた状態で、
全ての個体がまったく同じでは円形に並ぶことは出来ても
1列になることが出来ないらしい。
先頭を決めるモードが必要なんだって。ふぅ~ん。


感想としては:
ヒトの脳内も群ロボットの集まりやんなぁ、と思った。
全体を見渡せるロボットは存在せず、
役割の違うロボットが非常に多数活動している状態。
それを見てほぼ時系列に記録しているモジュールが
意識と呼ばれる領域。
ただ、意識されるとされないとに関わらず
行動結果はフィードバックされ、
意識されたからといって行動は起こしてしまっているので
意識したからといって再計算されることはないよねー。
イメージトレーニングをしよう、と考え付くモジュールがいて、
行動のシミュレーションをやるモジュールがそれに賛同すれば
イメージトレーニングが始まって、さっき実行した時の情報も
使いつつ、だんだん上手になっていく…
あ、この本の話題からどんどん離れていく!


あと、アイディアをひらめくのも技術なんだってくだりが面白かった。
凡人だから、全知全能の神じゃないからこそ、
ひらめくことが出来るんだそうで。
そりゃそうだ。
だけど、そんなふうに考えたことなかったな、と。



ちょっと、いえ、かなり本の内容から外れますが:

計算機の機能(コンピュータ間の通信速度あるいは通信帯域、記憶容量とワーク用のメモリの増大)
が今より桁違いに、それこそ何100万倍、ということになれば、知能と呼べるものを、
ロボットは獲得できるのではないかと思います。

計算速度は遅くても、一度に数万の入力を受け付けて
数万の相手に出力することが出来るモジュールを脳神経細胞の数だけ、
あとホルモンやグリア細胞による制御を模すために環境変数みたいなのとかを
処理できる機械ができれば、ニューロン-シナプスモデルの人工知能は
作れるかもしれないと思います。
おっと、入力と出力の装置としての身体も必要ですね。

人間らしい知能を実現するためには、
人間のような身体が必要なのではと思い始めています。

同じ構造で動作するのでなければ、効率的な省エネルギーな動き
というのは異なってくると思うので、もし関節の数や関節を動かす時に必要な
エネルギーが筋肉-骨格のモデルと異なる時は
そのロボットが自発的に作動したとしても、なんだか奇妙な動きに見えるでしょう。

まったく異なる存在が、お互いの行動や考えを理解しあうには
障壁が高すぎる気がします。

種が異なる動物同士で、
「あ、怒ってる」とか「眠そうだ」とかが判るのは、
やはり同じ仕組みで動いていて、ご飯を食べなきゃおなかが減るし
ひもじければ惨めな気持ちになるんだろうなあ、とかいう
共通のことがらがあるから、なのではないかと。

2008年2月24日日曜日

自分って、なんだろう

小さいころ、自分とはなんだろう
と、よく考えたものです。

大きくなるにつれて、
自分とまったく同じコピーを作ったら、
そいつもさっきまでの記憶や「存在しているという感覚」も持っているから
そいつも、そいつのことを指して「俺はここにいる」と言うだろう、とか
考えるようになって

どっちが本当の俺なのかという問題は、
その「そいつ」は、何から何まで元の俺と同じだから
周りの人にとっては、俺が重要視するほどには関心のないことだろうとか。

そうは言っても、その後オリジナルの俺が消えて
「そいつ」が残ったら、周りの人から見れば俺は生きてるのに、
「ああ、俺は生きてる」と今思っている俺は死んでるんだろうなぁ
とか、ね。


以下、台詞や言い回しは記憶だけで書いているため、
不正確です。ご了承ください。


銃夢 という漫画がある。
ちなみに がんむ と読む。

脳だけが生体であるサイボーグが主人公の話であるが
この漫画の中で
「徘徊できているからと言って生きていると勘違いしないで」というような
台詞とか
「自分で自分の行動をコントロールしている人はほどんどいない」というような内容とか
人は「自動機械」であるというようなこととか
「精神は肉体の奴隷」という言葉も登場する。

最近単行本になっているものには発見できないんだけど
昔読んだときには、
「脳みそなんかいらない、市民権をよこせ」といった台詞があった。

脳が機械に置き換えられていて、その他の器官がすべて生体である人々も出てくる。
機械(アンドロイド)の登場人物、実験により人為的に設計されたDNAを持つヒト、
いろいろ…




自分の行動を決定しているのは自分の表層意識か?別の器官か?とか
人間の定義って、なに?ということを考え直したくなる。


攻殻機動隊 という漫画がある。
アニメになっているものとは異なる方向に話が進んでいて(アニメが原作と異なる、というべきか?)
コンピュータプログラムである「人形使い」の「意識」というか「思念体」のようなものと
主人公が融合した後の主人公(複数形?)の話もある。

これも脳だけが生体であるサイボーグが主人公だ。

人形使いの台詞にも
「ヒトは自分の記憶を外部に保存できた時点で人間の定義をもっとしっかり考えておくべきだった」
というようなものがある。



進化というか存在することというか
より高確率に存在し続けるというか
「意思」と「魂」って同じだろうか、とか
そんなことを考えさせられる。


これらの漫画を目にして、そんな風に考えるのは
おかしいのかもしれないけど



マトリックス という映画を見た。
みたというより、映画3本とアニマトリックスの計4本のDVDを持っている。

アニマトリックスに面白い話があった。

ある小集団が、マシーンを捕獲する。
そのマシーンの「脳」に何かを接続し(独自のヴァーチャルワールドに接続するようだ)
(仲間にするつもりなのかもしれない)ているときに
登場人物がいう。
「(マシーンには)現実とヴァーチャルリアリティー世界の区別は付かないさ」というような内容

でも、俺は思った。それは、人間も同じなのではないか。
人間(正確には人間の表層意識)も、世界を直接見ているわけではない。
脳によって演算され、意味づけされ、理解しやすく都合よくゆがめられた計算結果を見ているだけだ。
つまり、初めから表層意識はヴァーチャルリアリティーの中にいる。
だから、もしものすごくよくできたヴァーチャルリアリティー世界に接続されたら
区別はできないはず。







表層意識が「俺はアイスクリームが食べたい」とか
「あの娘が好きだ」とか考えるより前に
すでに脳内の別の機能がそう決めていて、
自動的に体が動いていて、表層意識はそれを追認しているだけではないのか、
そう考えるようになっていた。



先日、どこで見たのか忘れたが、
ある書籍が紹介されているのを見て、早速読んでみた。

小さいころからの疑問、最近の自分の考えを裏付けてくれた
その本は
脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説/前野 隆司



私を私と思うこと自体も、脳内のモジュールの一つに過ぎず、
時系列に出来事を覚えるため前処理をしているだけである

心に強く「しあわせだなぁ」とか「悲しい…」と思うことは
記憶を呼び起こすためにタグ付けをしているだけである

すばらしい。
そう考えれば、脳内で起こっている全ての計算を全てを把握し掌握する必要はない。
(脳内の計算は複雑で膨大なので、むしろそんなことは初めから無理なんだけど)

また、脳内で処理されてはじめて感じるはずの指先の触覚の感覚を、
なぜ指先で感じているように思うのかというと、
脳が演算したその触覚を、デバイスである指先に投影しているのだ、という。

これは、俺が考えていた、「表層意識はヴァーチャルリアリティーの中にいる」という
考えと一致すると思う。

さらに、俺は、
目で見た情報と耳で聞いた情報が
同じ物体から得たものである時、
画像処理に必要な時間と、音声処理に必要な時間は異なるはずなのに
同時に見聞きしているように感じているのは、どちらか遅いほうに合わせて感じている、
つまり、気づいてないけど同時に見せられているだけであるということ、を考えていた。

この本には演算時間ではなく、演算する場所への信号の伝達に必要な時間の差として
記述されていた。


更に進めて考えると、見聞きした事象が発生した時点は、見聞きしたと認識した時点より過去であるはずだが
表層意識は 同時だと感じているのも、だまされているだけだと思う。全ての演算には、どんなに短いとしても
時間がかかるはずなのに、おかしい。


ずいぶんやかましく書いてしまった。
俺はすごいんだ、大学の先生と同じこと考えてたんだぜ、と言いたいのではなく
この本がすごい面白いから読んでみて欲しいと思ったのだが

プロの書評家ならここまで自分の想いを書かないよねぇ
読みにくくてすみません(というか読みに来るひと、いるんだろうか)