2013年1月23日水曜日

つぎはぎだらけの脳と心

さて、本日2冊め、行きます。

つぎはぎだらけの脳と心



副題は「脳の進化は、いかに愛、記憶、夢、神をもたらしたのか?」
著者はデイビッド・J・リンデン、訳者は夏目 大。

読みやすい本です。
人の心の不思議に近づける気がします。

これまで読んだ本で、ヒトの脳には、トカゲ的視覚野と新皮質上の視覚野が共存していることは知っていましたが、やはり、進化は増築に次ぐ増築でヒトの脳を作ったようです。
まるで、少し大きめで歴史のある温泉宿に行くと、本館、別館、新館、などと複数の建物が渡り廊下などでつながっていて、さっきまで1階にいたのに、進んだ先は2階だった、というようなことがよくありますが、まるでそんな感じです。

鳥類の脳は哺乳類と違っていて配線の効率がいいので、小さくても知能が高い、ということを見聞きしたのですが、そうだとするなら、進化の過程でどんなドラマがあったのか、興味あるところです。

ものすごく精緻に設計された、スーパーコンピュータをも凌駕する脳があるから人間らしいのではなく、ありあわせの材料で建て増しを繰り返して非効率きわまりない脳を効率的に使おうと苦しんでいるのが、人間、という感じらしいです。

稀代の天才が現れ、人工知能をゼロから設計して作動させたら、人間の知能とはかけ離れていて、友達にはなれない。それどころか、人類を殲滅してしまう、ということもあり得ると思います。
うまく人間と付き合っていける知能を育てなければならない。そんな気がします。


以下、一部、これまでに読んだ本の内容とごちゃまぜになっちゃってますが…

神経細胞というのは、クラゲのものと、人の脳のものとで、基本的に同じらしいです。
哺乳類では軸索が髄鞘化しているものもあって効率は高くなっていますが、それでも人間が情報伝達のために発明した導線のすごさに比べたら、雲泥の差です。

経験を効率的に明日の生活に活かすために、エピソード記憶を発達させ、時に捏造してまで辻褄の合った物語を必要とするヒトの脳。このエピソードを作る副産物が意識、特に自意識、自由意志といった表現で知られる感覚や現象の素になっていること。

オトナになるのに時間がかかる子供を育てるために、また、群れを作ることのメリットを享受するために、ヒトは集団で暮らすが、そのときにある程度上手くやっていくためには「道徳」のようなものが必要で、というか、道徳を持っていた個体が上手く子孫を残したんでしょうね。
集団で仕事をするために必要なものとして、「共感」もあると思います。
あるヒトはそっちに灌漑のための溝を掘ろう、と言う。自分はもうちょっと山に近いほうがいいと思うけど、それほど根拠もない。それならアイツの言うことも悪く無いか、と思わないことには意見が集約せず、共同作業ができないからです。
そして、共感の能力はロクに話せもしない幼児の頃から、ふたり以上で遊ぶことができる年齢になれば、自然と発揮していると思うのです。
「なんだかわからんがスゴそうなもの」を信じたいという気質も人間は持っているらしく、私はそれも集団生活のために獲得した機能だと思います。

長年にわたって擁護し続け育てなければならない子供のために、ヒトは最小単位として夫婦による子育ての方式を選んでいるように思います。特定の人と長期間一緒に暮らすためには、共感や尊敬や愛や快感が重要だという考えには容易に賛同できます。

脳内での記憶の整理やなんやらに役だっているらしいといわれる夢。
結局複雑すぎてなんだかわかってないみたいです。が、これもヒトになってから突然獲得したものと考えるのは難しいと思います。
我が家には犬が一匹いますが、寝ていると眼球が激しく動くときがあるし動かないこともある(レム睡眠、ノンレム睡眠がある)し、寝言も言います。いや、もちろんコトバじゃないけど、キュンキュン泣いてみたり、なんか食べてるみたいにクチャクチャと口を動かしたりしながら寝てます。つまり夢を見ていると思うのです。
睡眠中は前頭葉など、物事の確からしさを吟味する機能が低下しているらしいです。そのせいで、夢のなかでは現実ではありえない展開が起こるようです。

宗教については、さすがにヒトになってから得た機能が原因だと思いますが、犬や猫が、なにか超常的な畏怖すべきものを信じているかどうかは、彼らがコトバを話さないので知る由もないことです。
宗教の素は、夢を見ている時のように現実ではありえないものも信じてしまう精神状態、あるいは分からないことを切り捨てて自分に都合のいい物語を作ってしまう機能により「意識」が「実体験した」と勘違いしたいろんなことを更に物語として語ってしまうこと、および、「なんだかわからんがスゴそうなもの」を信じたい気質、「共感」の能力が集まっているのでしょう。
ただし、世の中で幅をきかせている宗教には、政治的に利用しつくされ元のものとはかなり変容しているものも多いと思いますし、宗教というより道徳だったり、戒律を守らせるための脅しだったりするものもあり、神仏や自然を崇拝するという意味での宗教ではないものが多いと思います。

心をもつ機械

今日は2冊ご紹介しようと思います。
1冊めは、「心をもつ機械」です。
副題は「人工知能の誕生と進化」、著者はスタン・フランクリン氏、訳は林一氏。



本編619ページの厚めの本ですが。。。

とにかく、読みにくい。
文章が独特すぎる。
あくまでも私個人の感想ですが、ものすごく読みづらい。
ちっとも内容がわかりません。

まだ私には早かったということかもしれません。
使用されている用語にもっと慣れ親しんだら、読めるようになるのかもしれません。
そういう意味で、上級者向けの本、という分類にしておきましょう。

ですので、実は読破できませんでした。300ページくらいでgive upしました。

内容は…

よく二元論的に言われているように、知能は「ある」か、「ない」かのどちらかではなく、その間のどの状態でも取りうる、ということ(何を以って知能というかはまた別問題)。(同様に、「生物」と「非生物」も連続的に考えることができる)

単細胞生物でも、餌や避難すべき毒物、光や温度に対応して向かって行ったり逃げたりするが、これも単細胞生物なりの知能だろうとのこと。

この辺りの考えには賛同できる。

また、私の今までの感覚では、エキスパートシステムのように、システム自身は単語や文章の意味を知らないが、質問(入力)に応じて適切そうな回答(出力)を行う、記号を記号のまま扱うシステムでは生物のような知能は生まれないのではないか、と思っていたが、そうとも言えないのではないかと思えてきた。

ニューロンモデルでできることはすべて記号を扱うシステムを用いて再現できる、というような記述が、あったように思う。思う、というのは、今このコンピュータの隣にこの本を開いて探したのだが、見つけられない。逆の記述は発見できた。「テューリング機械で実行できるいかなる計算も人工ニューラル・ネットワークで実行できる」

何を以って知能というか、言葉の意味を解釈していると言えるのか、そういう問題はもちろん残っている。ニューロンを模したシステムなら言葉の意味を解釈していると言えるかといえば、おなじように分からない、と答えるしかない。
その意味で、ニューロンを模したシステムが人工知能を組み立てるのに良い材料だという断言はできない気がしてきた。


本の続きをパラパラとめくってみると面白そうな図が目に入る。ので、また機会があれば読んでみたいと思います。


2013年1月2日水曜日

また、前頭葉関係の本を2冊



今回ご紹介する本は2冊です。

脳を支配する前頭葉
人間らしさをもたらす脳の中枢



前頭葉は脳の社長さん? 意思決定とホムンクルス問題





「脳を支配する前頭葉」の方が、読みやすかった気がします。
「前頭葉は脳の社長さん?」のほうは、たまに出てくる冗談がキツイ時がありました。

両方の本、また、前回紹介した「前頭葉の謎を解く」とあわせて、やはり、という思いが強まりました。

すなわち、進化上ヒトより前に確立した種の脳、ヒトにおいても前頭葉とその関連部位を除く脳の部位(「古い」脳)が、主に入力系と出力系を結んで情報処理しているのに対して、前頭葉は脳の部位と部位をつないでいる、ということ。

大部分の大脳の部位は、「材料を生のまま塩をふって食べる、あるいは軽く炒めて食べる」ことや、決まったパターン認識を行う、のですが、前頭葉は違っているようです。
「下ごしらえした、あるいはそのままでも食べれる料理を、組み合わせてアレンジしてさらに調理して(直接食べずに)皿に盛り付ける、冷蔵庫で寝かせる」などのことをします。

前頭葉は、感覚器から得た情報と、情動の状態、空腹かどうか、あるいは目的として現在注目すべきものが何なのか、といった情報を組み合わせて、感覚器からの情報そのものを感じる度合いや意味を変化させてしまう。

前頭葉は、今触っているものが尖っていて痛いとか熱くていやだ、といった「現在の情報」だけではなく、それに加えて過去のあらゆる記憶、これから先の目的・計画(未来の記憶)も参照することができる。
前頭葉を除く「古い」皮質は基本的に現在の情報を処理するのみです。

頭の中で、欲しい物の形や色、手触り、味、匂い、といった感覚的なことのみならず、名称を表す文字列などの記号的なもの(抽象的な思考には欠かせない)をも思い浮かべ、色を変えてみたり、形を変えてみたりといった想像を働かせることができるのは前頭葉の働きによるものらしい。

さらに(私自身の考えというか予想というか、が入りますが)、エピソード記憶を作っているのも、前頭葉ではないかと、思います。ある日の出来事を覚えていたり、振り返ったり、という記憶を持つためには、物語の主人公として、起こったこと、行ったことを記録しておく必要があります。外界からの情報、自分が介入したことによる外界への影響、お腹のヘリ具合、四十肩の痛さといった体内情報、さらには自分の脳内でどんな比較や葛藤があったか(前頭葉にとっては外界からの情報と同意義)といったことをかいつまんで記録するためにも、前頭葉は最適な位置にあります。

この記録を以って自身の自由意志の発露だと考えている(勘違いしている)のが、今この記事を書いている、狭義の「私」です。

広義の「私」は、この記事を書いている間にも、呼吸を制御したり、腰が痛くならないように姿勢を変えてみたり、音楽を味わっていたり、ドライアイの痛みに耐えて目薬の在り処を思い出していたり、時刻を気にしていたり、「も」という文字を入力するために手指を動かしていたり、ということを並列で処理しています。

前頭葉はまた、観察している相手の意図を汲み取るためにも重要な役割を持っているようです。この機能と関連しているのが、道徳の概念だと思います。

発生時に、あと1回、たったの1回、前頭葉の神経の分裂が多くなれば、ヒトはもっと思いやりに溢れ、戦争しない生物になれる気がします。
その時には、個人の概念も変化するでしょうか。個人の利益の追求と、集団や種の、もっと広げて全ての存在における利益の追求は、ドコかで折り合いをつけているものですが、道徳観念が進化したヒトにとっての折り合い点は今とは異なっているでしょう。

なんだか脱線気味ですが、まあ、今回はこんなところで。